2009年10月20日 (火)

まことに無心の境涯

・・秋の夕暮れに空を霞(かすみ)が飛んで行く。

一匹の群れを離れた雁が飛んで行く。

霞と雁が組んずほぐれつ飛んで行くような景色。

その景色たるや、まことに無造作で、そこに何らのはからいもなく、スラスラーッと大芝居が打てている。

その雁が飛び立った!

沼の水と、秋の空とが同じく真っ青な色にサアーッと飛んでいる。秋水長天と一色と。   

秋の最中、みなさんもフト、近所の景色に思いを馳せられた時、こんな心持ちで、ぜひご覧いただければと。 

自由自在のハタラキというか遊戯三昧、賓主互換(ある時は主となり、ある時は賓となり)お互いに相手の境地にいつでも成り得ます。

こんな境地・・・。

悟りを開いた者は、みんな同じ境地に入っていくもの、普遍的世界に入るのです。

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2009年10月13日 (火)

一日5分のメンタルケア

こころに効く一日一禅 (ぶんか社文庫) Book こころに効く一日一禅 (ぶんか社文庫)

著者:井上 暉堂
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私の最新刊、「こころに効く一日一禅」が好評発売中です。

文庫サイズでどこでも手軽に読めるように出来ております。

ストレス社会のメンタルケア・サプリメントとして通勤・通学・就寝前など5分で心を癒すことが出来ます

この中にも書きましたが、読みながらなお、坐禅を組むとより自分の心への旅ができます。

ぜひ一読してみてください、よろしくお願いいたします。

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命の大切さかみしめて

私事ですが、私のコラムが朝日新聞のかながわ沿線版に連載されるはこびとなりました。

禅をとおしてのライトで身近なコラムを書いていくつもりです。

お時間のある方は是非目を通してみてください

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最良の境涯

正しい世界観、真実の生き方を実行しようと思うならば、外音にだまされないようにしなくてはなんりません。外音というのは必ずしも個人の情報のことではなく。外界のもの、客観にだまされてはいけないということです。

何かにとらわれる、使われていてはダメなのです。何かに縛られても・・駄目です。

絶対の自由をつかまないといけません・・。天上天下唯我独尊で、何ものにも縛られない、何ものにもこだわらない。こういった境涯を手に入れておかないと人生が曲がった方向に進んでしまいます。二度とない人生を、何か他のものに曲げられて終わってしまったのではつまらないことですよね。

お金のために一生奴隷になってしまう。子どもの頃に、この世の中は金があるのが一番いいことだ、と頭の中に植え付けられるというと、一代、金のために働き、金のための苦しみ、金のためにロト6であたったからハワイだ!と喜び、金のために悪いこともしなければならない・・。

金だけではない。形のあるものだけではなく、精神的なものでもそうです。

占いだのパワーストーンだのを信じている人は何もかもそれに支配されてしまう。または、思想に支配されてしまうこともしばしばあるのです。

内面的でも外面的でも、精神的でも物質的でも、何かに出会ってそれにとらわれそうな気が起こった時にはみんな退けてしまいましょう。

何もかも否定していくのです。いつも無心であること、いつも無分別であることが真正の見解(けんげ)です。最良の境涯です!

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2009年10月11日 (日)

みんな持ってる悪い癖

みんな何かを背負って生きています。

それぞれに何かにしがみついているのです。

そこで、その何かを背負っている方たちを、坐禅をして、心を落ち着けて、自分の中心に向かって悪しき心の習慣を見つけ出して、その悪い癖を取っていく・・・。

そのとらわれているものをことごとく捨てていく。

みんなの持っている執着、みんなのしがみついている拠り所をことごとく捨て去っていく。

学問に執着している人からは学問を捨てる。

お金に執着している人からはお金を捨てる。

社会的地位に執着している人からは、その地位を捨てる。

ここを参禅の眼目としたい・・。何かを持たずに天衣無縫で、素っ裸で参禅をしていく・・。

正直なもの。日常生活でも平常心是れ道で、坦々として生きていく・・。

なかなか自分の癖というものは隠せないものです。心の中のプライドというものは、必ず外へ出て来るものなのです。

その外へ出てきた妄想を捨て去っていく。頭の中にこびりついている理屈を捨て去ってやる。

曲った人生観を捨て去りましょう。

何もかも捨てて、素っ裸で出て来るような、真個無字三昧で本日も過ごしていただきたいものです。

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2009年10月 8日 (木)

今を生きる

人生とは、今、今の連続です。今の中にもう過去が入ってます。

未来のことなど考える必要はない。済んだことは考えずにまだ来ないことは放っておく。

今、今です。

ここを大事にしていくならば、専門道場で10年修行をしたよりも勝る修行になる。

みんな、外から何かを加えることが修行であり、学問であり、一番大切なことだと思っているが、そうではなくして、外から加えたものを全部捨ててしまって、何もない裸のところが、生まれたままのところが、生地(きじ)のところが、一番結構なのです。

本来、一つとして人に教えることはない。一つとして人に与えるものはない。みんなの持っているものを奪って裸にしてやることが禅の仕事そのものなのです。

無字三昧になって来なさい、というのがそれです。死にきって来いというのがそこです。

何もかも捨てて、生命自体が真実の叫びを上げていく・・・。

生命自体がホントの自分の呼吸を意識するのです。

何もかも捨てて無字三昧になって来い

隻手音声になって来い・・。

死に切って来い・・。

大死一番絶後に蘇るのです。何もかも奪ってしまうというと、そこから天地宇宙こ
とごとく我です。

何もかもが自分なんです。何もかもが無字、隻手です。

こんな世界が開けて来るのです。

きょうは台風18号さあ、こんな時こそ、台風をどう見ますか???

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2009年10月 6日 (火)

生きながら身のなきを知るべし

互いの生きている生命は、何もつかまえようのない姿において、無の姿において流れていくものです。

そう徹することができずに、禅というものが何かの本に書いてあるように思ったり、ホトケが寺の本堂にござるように思ったり、禅が法が禅堂の中にあるように思ったりするならば、百年、修行をし行脚をしても何にもなりません。

・・お互いの体も年々刻々と新しい体であり、お互いの意識も年々刻々と新しい意識であり、そこには執着しなければならない何ものもない・・。

活発発地に動いていくが、そこには何もないと分かれば、それが禅ではないでしょうか?

それでいい。それで万事解決じゃありませんか

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2009年10月 4日 (日)

.無字三昧の自分

・・・無字三昧に入って自分というものが分かってみなさい。相逢うて相識らずだ。ああ、オレはこれか、オレには名前はなかった。
オレには、形もなければ、声もなければ、姿すらない。男でもなければ女でもない。若くもなければ年寄りでもない。偉くもなければ馬鹿でもない。真個、見性をしてみるならば、オレがオレを見たらどんなことになるか??名前なんぞありはしない。それが一番よろしい。世間の人が見るならば、家の主人は、やれ学者だとか、やれ金持ちだとか、やれ社長さんだとか、やれ給料運び屋だとか、坊主、禅の老師の親爺とやら、いろいろな役があるであろうが、奥さんから見たら、学者でも金持ちでも社長でもなければ何でもない・・。「あなた」なのだ。

真実の自己というものが分かって見るならば、学者でもなければ、男でもなければ女でもなく、偉くもなければ馬鹿でもない。「オレ(あなた)」だ。分かったということも言えない。ただ、観劇するより仕方がない。

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2009年9月27日 (日)

伝統に安住してはいけません

現代において修行者が悟りを開かないのは、真理が分からないのは、みな名前にとらわれ文字にとらわれ、言葉に囚われて、
言葉の詮索、文字の詮索をして、それで分かったように思うからです。

今から千年以上前の臨済がそう嘆いてるのだから、現代でもそのとおり図星です。ホンモノがつかめないのは、そんなことがあるからです。

道場を預かり、雲水を修行している師家といわれる連中もそれにあたる。
形だけ修行して悟りを開いたという役に立たない老師方の言葉を書き込んで、これは、まさに*書付仏法火の用心*に他ならない。

~わしのところには白隠の書入れのある碧巌録がある~とか後生大事そうにしまいこんでいる。秘伝だとかで。そんなものが何の役に立つか??現代の社会、政治、経済とどう関係するのか・・。師家だの老師だの言われる連中がみなそれだ。そんな古臭い、カビの生えたような、死んだ人の言葉を珍重がって、それを読んで、これが提唱だと言っている。また、みながそれをありがたがって聴いている。とんでもないことだ。禅なぞというものは、そんな古い本の中にありゃしない。碧巌録そのものが古いじゃないか。その碧巌録の横の隅のほうに、虫眼鏡で見なければ見えないような小さな字をいっぱい書き込んで、それを読んで提唱だの講釈だの言っても、糞の役にも立たない・・。北朝鮮から核の飛んでくる時代に、そんな古い言葉を読み上げて、珍重がっても仕方なし。なぜ、自分の言葉を使ってしゃべらないか?現代の言葉で禅が説けないか?現代の師家、老師がみんなこれだ。ニセ坊主のところでいくら修行しても何にもならない。さらには、禅堂に一日もいたことのないやつが、やれ「禅と哲学」とか「禅と科学」だの、本を読んだだけで何も分からないのに、自分の分別、知恵で想像を逞しくし、西洋の哲学を考えるような気持で、禅を考えている・・。

分別、知識で自分の頭で禅を測量して、論文を書いてくる・・。見性どころでないではないですか!

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2009年9月21日 (月)

純一無雑

どんな良い行いでも、見性ができなければ、それは盲目的な行為、他律的な行為というものである。

神の命令に従って行うような道徳ならば、それは他律的である。仏の戒法を守っていかねばならないという道徳ならば、それも他律的である。

社会の文化運動のためにするような道徳ならば、それも他律的である。そういった他律的な道徳で自分を荘厳し、社会を荘厳するようなことならば、それは業を積むというもの。仏法ではない。そういういらざるものに頭を費やすよりは、純一無雑にして坦々として仏法を探究するがよい。そういう表面的な、社会的な道徳などは、ことごとく造業造趣である。そういうものをふり捨てて、坦々として自己の真正に向かって探求していくに限る。

公案が二十済んだの、百済んだのと、老師たちが自慢しているが、それすらも造業・・。公案というものは、純一無雑に自己を探求してていくための方便として設けてあるだけのこと。透過してしまったら、忘れてしまうべきものだ。

いつでも純一無雑に己事究明をしていかねばならない。世間的な世知弁才なんぞはいらない。世渡りの術など一切不要。世間で自分の
立場を築いていくような欲情を起こしてはいけない。道徳もいらないこと。六度万行をことごとくふり捨てて、純一無雑に自己を探求していくなら、そこから真実の道徳が出て来るはずだ。この純一無雑に修行をしていく道人の行履(あんり)というものは、うかがい知れないもの。そうならなくてはいけない。馬鹿だか利口だか、善人だか悪人だか、真面目なのかズボラなのか、テンと見当がつかない。これが純一無雑だ。

妙に人前でばかり気張って坐禅三昧になっているというような顔が見えるようでは駄目。真実に自己を求め、己事究明をし、坦々として坐っていく者は、馬鹿だか利口だか、偉いのか偉くないのか、学問があるのか学問がないのか、さっぱり分からない・・。そうならないと真実の道人とは言えない・・

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«お互いの本性は無と徹する・・