どんな良い行いでも、見性ができなければ、それは盲目的な行為、他律的な行為というものである。
神の命令に従って行うような道徳ならば、それは他律的である。仏の戒法を守っていかねばならないという道徳ならば、それも他律的である。
社会の文化運動のためにするような道徳ならば、それも他律的である。そういった他律的な道徳で自分を荘厳し、社会を荘厳するようなことならば、それは業を積むというもの。仏法ではない。そういういらざるものに頭を費やすよりは、純一無雑にして坦々として仏法を探究するがよい。そういう表面的な、社会的な道徳などは、ことごとく造業造趣である。そういうものをふり捨てて、坦々として自己の真正に向かって探求していくに限る。
公案が二十済んだの、百済んだのと、老師たちが自慢しているが、それすらも造業・・。公案というものは、純一無雑に自己を探求してていくための方便として設けてあるだけのこと。透過してしまったら、忘れてしまうべきものだ。
いつでも純一無雑に己事究明をしていかねばならない。世間的な世知弁才なんぞはいらない。世渡りの術など一切不要。世間で自分の
立場を築いていくような欲情を起こしてはいけない。道徳もいらないこと。六度万行をことごとくふり捨てて、純一無雑に自己を探求していくなら、そこから真実の道徳が出て来るはずだ。この純一無雑に修行をしていく道人の行履(あんり)というものは、うかがい知れないもの。そうならなくてはいけない。馬鹿だか利口だか、善人だか悪人だか、真面目なのかズボラなのか、テンと見当がつかない。これが純一無雑だ。
妙に人前でばかり気張って坐禅三昧になっているというような顔が見えるようでは駄目。真実に自己を求め、己事究明をし、坦々として坐っていく者は、馬鹿だか利口だか、偉いのか偉くないのか、学問があるのか学問がないのか、さっぱり分からない・・。そうならないと真実の道人とは言えない・・
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